植物園の定義について

憩いの場としてはもちろんだが

日本においての植物園に対する意識と、世界においての植物園に対する意識の乖離は見事なまでの断裂している事が理解出来ただろう。国によってはその土地でしか存在しない植物の遺伝情報は国家機密レベルで管理され、重要なものとして管理されている中で諜報員などの潜入によって貴重な遺伝資料が盗まれるといった事件も頻発している。そう考えると日本の植物園、というよりは植物公園においてそんな緊迫した雰囲気を感じさせる部分はまずない。どこに行くにしても基本的に開放している。もちろん無断で植栽されている花を持って帰るなどの行為に出れば犯罪だが、遺伝情報を盗んでというような大胆不敵なことをしているという話になると、どこか現実味が感じられない。日本のお気楽さがにじみ出てしまっているような、そんな情けない気分に苛まれそうになるが、体裁としては植物園の存在定義はキチンと明確に、世界レベルに恥じないものとして固定されている。

では植物園の定義について答えてくださいといわれて、どれだけの人が答えられるだろう。筆者もこの原稿を書く前まで植物園についてはここまで大げさなものだとは想像していなかった、ある時に国家レベルでの戦いが繰り広げられているという話は何度と無く聞いた事はあっても、遺伝資源を目的とした闘争が行われていたという事実を知ると、話のスケールが壮大になって圧巻だ。さて、そうした中でこの日本において主に国立植物園として運営されている植物園についての定義としては、次のようなものとなっている。

『植物を収集・保存して学術研究を行う施設であり、それらの植物を展示・公開することによって、植物多様性とその保全、植物学並びに自然環境教育、植物資源を生かした産業の発展に資する期間である』

となっている。体裁としては完璧だが、これを初めて聞くという植物園に頻繁に訪れている人は少なくないだろう。日本の悪い点でもあるが、施設の本質について詳しく述べられていないというのはもはや問題外だ。とりわけ性質が悪いのは、こうした植物園で勤務している人間の中には働いているにも関わらず、植物園が有している意味はあくまで経営としての一見的な部分でしか物事を見ていないというところでも、色々改善しないといけないだろう。本来あるべき植物園の姿としては、この世界で生きている植物を研究し、その遺伝子を未来永劫残して行くことを目的とした施設としての色にしなければ、日本としても立場はないかもしれない。

植物園が有する社会的責任を考察する

では植物園とは本来どうあるべきかという点については、社団法人である『日本植物園協会』が定めている植物園の社会的責任について言及されている。この内容については見ると、普段我々が利用している植物園としての特色はあったとしても、本質として研究の一貫として、そして今後将来を見通して絶滅の恐れがある植物の種類については保全と管理を行っていく必要がある、その意義を見出すための施設として色合いが非常に強くなっている。三陽メディアフラワーミュージアムにおいて言うなら、ここは植物園というには少々味が足りないだろう。そういう意味ではここもどちらかといえば観光施設という風に見た方が早いかもしれない。

そうではなく、植物園としての学術的な面における意味ではどのような気概を背負っているのか、考えてみよう。

人類のために

植物園は人類の繁栄と社会的発展のために必要な施設である、大げさではなく本当にそのための施設として運営されているのだ。世界での扱いと日本での扱いには格差が生じすぎてしまい、真実を見落としている人があまりに多すぎる。では植物園とは本来どのような責務を抱えているのかについて、簡潔に紹介していこう。

  • 1:内外種種の植物を多数収集し、その育成を通して植物種の系統保存と保全を図る
  • 2:収集された植物を教育的配慮の元に植栽・展示すること
  • 3:植物を通して、心の潤いと憩いを提供すること
  • 4:多くの人々に生きた植物を紹介し、植物に接する場並びに機会を与える
  • 5:植物・園芸に関する知識・技術の普及と向上に務める
  • 6:環境保全と自然保護について考える機会を提供する
  • 7:植物に関する調査研究を行い、植物に関する情報を広く提供する

植物園としての特色は上記のようになっているが、このすべてを満たしていなければ植物園とは呼べない、というわけではない。それもそう、植物といってもその数は尋常ではないほどの品種が存在している。三陽メディアフラワーミュージアムの後庭にあるバラ園で話したところでも、ここに200種類の薔薇が植栽されているとはいっても、これが世界単位でいうならほんの一握りの品種でしかないからだ。すべてを栽培して研究するとなれば、恐らく何代にも渡って研究するだけの時間が要するので、そこまでしていると時間は当然だが、費用としても計り知れない額になる。とすればあるテーマに沿って、もしくは研究内容として専門分野として扱っていくことである程度枠を縮める、ということをしなければならない。

それは協会としても分かっていたので、社会的責任として有することになる植物園の義務についての補足として、特化した分野を専門的に研究しているとなれば責任を十二分に果たしていると考えられている。国家レベルの産業として取り組めばかなりの規模で行うことは出来るにしても、この日本でそのようなことを積極的に行うような政治家がいるとは思えないので、夢のまた夢とした話だろう。そうなると民間における研究機関がどれだけ成果を挙げられるかが、重要な鍵となってくるのは間違いない。

植物園と公園の違い

日本には『植物園』、もしくは『植物公園』と言う風に呼ばれている施設に分かれているところがある。一見すると同一のように思えるが、明確な違いとしては『学術的な研究を行うことを目的としているかどうか』、という点で違いとして分けられる。とりわけ施設内に憩いの場やオープンスペースといった物があれば、それは『植物公園』という風に見た方がいいだろう。ですが日本ではこの二つもどこか曖昧な境界線で区切られているため、区別はつけられないかもしれない。その例として東京都内にある、都内で随一の植物公園として知られている『神代植物公園』というところがある。

調布という、東京都内でも郊外に位置しているこの場所に設置されているこの公園では、普段から多くの人が訪れて憩いの場として利用している。施設内には色鮮やかな植物が栽培されているが、そこには知らず知らずに植物と触れ合い、知識を深めてほしいという願いも込められて植物公園として命名されたというのが、この公園の歴史だ。こうしてみると学術的な研究が行われているようには見えないが、施設内には世界有数の薔薇庭園として認められた園があり、そこは見事なまでに咲き乱れている薔薇の数々があり、ここでは薔薇に関する知識はもちろん、研究者が学術的な面で研究するために必要な資料もあり、また原種の保存が行われているなどの『一般的な植物園としての特質』も持っているのだ。

協会が提示している植物園と植物公園は違うといっているが、日本においてはこの定義は少し当てはまらないとも考えられる。それは世界とはまた違った視点から植物園というものを捉えた、日本ならではの感性だからというところかもしれない。

植物園の活動がもたらす意義とは

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